誰でもよかった。誰が書いたか見分けがつかない。誰がやったのかわからない。

故加藤智大

こいつ▲が逮捕されて獄中のインタビュー記事で「僕はトリガー(引き金)じゃない。弾丸なんです」と言ったというのが印象的だったよな。

ブルーハーツ「チェイン・ギャング」

マーシーはこの曲で「キリストを殺したのは僕だ。僕の罪のせいだ」と歌っている。

オウム真理教の信者に高学歴の若者が多かったり、こいつ▼のように

ハイデッガー

近代哲学の最高峰とか言われながらナチス党に加担したやつとか、「死」について突き詰めて考えて、自我がesや超自我とぐちゃぐちゃに混ざり合うと、そういう誇大妄想に持ってかれる事が往々にしてある。不健康な哲学だぜ。

山口昌男の「文化と両義性」を読んだ時に「あ、これは俺が書いたのかもしれない。小説をパクりやがって」と途中で捨ててしまった事があるが、裏を返せば「これを書いたのは俺ではない。あいつのお尻を触ったのも俺ではない。証明できまい。」という機制が働く。だからこの映画で▼

ルイ・マル監督の「鬼火」

アル中の主人公がロボット三原則に抵触したかのように確固たる意志で胸にピストルを押し付けて自殺する場面は笑えないんだよね。

インシュリンの自己注射じゃないんだからさ。フィクションだけど。

欧米人は「無」に慣れてない。というか「主」ありきの宗教圏だから、どうなっても知らないよ。僕が作ったアプリじゃないし。

誰がやったかわからない。まるで戦場だ。