リビドー主義とコンプラ主義の螺旋構造

日本の名目GDPの内訳

映画「用心棒」の三船敏郎

鳩山由紀夫が「最低でも県外」「トラストミー」と言ったり小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」と言ったりするのは所謂「劇場型」とされているが、梅沢富美男の夢芝居で編集したように、劇場とは通常の現実から舞台の現実に生まれ変わる「お仙の腰巻き」(唐十郎の赤テント)なので、政治家のコブラ遊びを劇場とは呼びたくないんだけどね。

スプリンターの神野さん

アベノミクスがやった事は、日銀をフル回転させてカネをばら撒き、富裕層は小銭の消費はしないので株式投資に振り向ける。そして新自由主義では「会社と従業員は株主の物」なので、グローバリズムの重力装置で富がピラミッドの上層部に集約して支配力が強まることだけど、チャイナリスクやコロナやロシアの石油等々でデカップリングの方向になった。

リビドー(情動)或いはケインズのアニマルスピリットにテコ(レバレッジ)をかけるなら、発展途上国に資本主義を輸出してきたように、国内の貧困層から中流階級に「カネではなく装置やインフラ」を注入する方が経験則に適ってる筈なのだけど、3万円とか5万円を無差別にばら撒いてるだけ。これこそ「使い捨ての金」であって3万円が10年継続するとか事業が生じてデノミネーションをやっても平気なくらい成長するとかの見込みがない。

原因の一つは、自民党の権力基盤が強固で、重箱の隅をつつくしか戦う術のない民主主義の言質チェックで、政治の言葉が萎縮しているのがある。

「まあね。私は政治家ですからね。若者が子供を産んでくれないと皆さんの年金も払えなくなるしヘルパーだって来てくれなくなるわけですよ。私が困るんじゃありませんよ。あなた方が困るんですよ」と「政治の本音」をあの手この手で上手に語りかける方が説得力があって効くと思うけどね。

映画「野蛮人のように」1985年

この映画は前年の「Wの悲劇」でアイドルから映画女優に脱皮した薬師丸の演技の幅を広げようと撮ったのかもしれないけど、久保田利伸に言わせれば「台詞とキャスティングがチグハグ」なんだよね。

人間社会はリビドー(情動)に走ってルールや掟を破ろうとすると「悪漢探偵(ケイドロ/ドロケイ)」のようにコンプライアンス大将がつきまとってくる。劇中の薬師丸の

「野蛮人!」という台詞で一本締めしてるけど、柴田恭兵は「野蛮じゃなくてクール」なんだよ。小津安二郎の演出が放任主義に見えて実はものすごい細かいのと同様、柴田の面白さは「キッチュを徹底したイミテーションゴールドの自覚意識」で抑制が利いている。真面目な人なんだよ。舞台上で。

政治家でもガーシーとか小沢一郎とか異端や野蛮な空気感で出てくる人たちがいるけど、柴田恭兵のような許され方はしないでしょう。

映画「七人の侍」の三船敏郎

フンドシに長刀で敵にとどめを刺してキッチリ仕事をするような。観客のカタルシスを満たすような演技でないと、劇場型とはいえないね。