日蓮とマルチン・ルターについて私が知っている二、三の事柄

中沢新一

網野善彦

バスケットボールのゴール

ゴダールの「決別」の解説本

この間早稲田大学の近所の古本屋で買ったこの本で、中沢が東京大学の宗教学の恩師に教わった「プロパガンダの宗教映画よりタワーリング・インフェルノを観なさい。エドガー・アラン・ポーの手紙は目の前の机の上にあるものです。それが宗教の本質です」の流儀をイノベーションした得意の横断的な文体で「アメリカ人が開発したバスケットボールというスポーツには、キリスト教の三位一体理論が凝縮されている事を、フランス人のゴダールは見抜いていた。」と書いていた。

なんだそりゃ。どういうことだと自問自答すると「ゴールというアジール(聖域)の上空に浮いているのが神。ゴールの網(ネット)が精霊。ゴールを通過して1点入って受肉、神の子、現人神としてバスケットコートに降臨したのがイエス・キリスト」という構図なのだと思う。神と神の子は同じ存在の異次元の位相なのだ。諸星大二郎が描く「ブラフマンアートマン」とかね。でも中沢は東大卒の宗教・文化人類学者なので「あのにくったらしいブラフマンが...」とも言う。バラモンクシャトリヤ、バイシャ、シュードラ、ハリジャン、のような階級制度が背景にあるみたいだね。

カトリックのチャペルの祭壇の十字架

プロテスタントのチャペル(礼拝堂)の十字架

政権がレームダックになった時の新聞記事の十八番のフレーズの「すべての権力は腐敗する」は、統一教会を見ればわかるように宗教の構造にもある。

宗教改革者のマルチン・ルターは大変な思いをしながら色々なことを成し遂げたわけだけど、カトリックプロテスタントの違いは、画像のように「十字架上の、主なるイエス・キリストを、見せるか隠すか」がシンボルマークデザインの差異ではあるけれど。

「三位一体とはいえ、一神教」なので、カトリックでは時に、イエスに比肩する崇拝対象になることもある「マリア」に、プロテスタントは神格を与えていない。

祈る対象は一神教の主である神を受肉したイエス・キリストのみであり、人間の聖母マリアにも、弟子のマグダラのマリアにも祈らない。ここは大きく違う所だと思う。公的な場所ではね。

ではスライドして日本の「鎌倉仏教」と比較すると、平安貴族の世が終了して源頼朝による鎌倉幕府が成立。武士・サムライの世の中になった途端、新興宗教が乱立した。

南無阿弥陀仏法然と南妙法蓮華経日蓮の仲の悪さ、敵対関係は有名だが、日蓮は保守的な人なので「仏教の神は釈尊だろう。阿弥陀なんてよそ者に祈るなんてけしからん!」と釈迦仏教の本流を貫こうとして怒っていたのだろう。だから日蓮曼荼羅のデザインは

法華経の「経本」を立てて「釈迦・法華経日蓮の三位一体」の構図で「教祖」になった。当時は新興宗教だからキリスト教同様に迫害されたけど、マンダラを見ればわかるように「膨張主義」だからね。今は勢力もかなりのものだが、宗教というより政治に近い。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」

中沢新一「フィロソフィア・ヤポニカ」

この本、面白いよ。

ではまた。