自我と物語の依り代と能力

パブロ・ピカソ

「いいか。ピカソは、人間が風呂に入って溶けないのは奇跡だと言ってたんだぞ」と映画「シャルロットとジュール」(ゴダール)の台詞にあるけど、真面目な美術評論家

ピカソの目は普通の目だが、なんて素晴らしい目なのだろう」と評していた。

五条悟

こいつのチャームポイントは六眼(リクガン)なのだが、アニメーションの第1話の主題歌の、獄門彊が出てくる遥か以前から「思わせぶりな立方体」が随所に出てくるので、おそらく作者の芥見下々はピカソキュビズムを意識しているのだろうと思っている。

任天堂ファミコンファミコンのソフト

かわぐちかいじが「心  COCORO」でレオナルド・ダ・ヴィンチの台詞として描いているように、およそ「審美眼」や「審美的な表現能力」というものは、基本的に目玉そのものや指先に宿っている訳ではない。

福岡伸一のいう「プリペアド・マインド」がそれに近いものだけど、ファミコンのソフトを入れ替えてしまったら/脳味噌を入れ替えてしまったら、「六眼」も「呪霊操術」も機能しない筈なんだけどね。

漫画としてもさ。

だから

①お父さんと息子が怪獣ごっこスペシウム光線の応酬をしている図

とか

②生成AIの見分けのつかないなりすまし詐欺に違和感のスピンを与える事でワクチン効果を狙ったり、少年読者に教訓を与えようとしている。

と考えると、高羽史彦の呪霊が憑依して笑えてくるんだけどさ。

「死を冒瀆している。」

と僕には思えて看過できない。

次は「フィクションの盛りの審美点」について、別の題材で批評を書きます。