虫も食わない非循環型のデジタル活字

ところで、問題の『四畳半襖の下張』であるが、これは現在の私にとっては、まことに残念ながら、あまりワイセツなものではなくなってしまっている。少なくともセーラー服よりはワイセツではない。金阜山人の名文にケチをつけるつもりは毛頭ないが、どうも、あんまり正攻法で、あんまり正常すぎるような気がするのである。

  最後に柚子が「おつかれ筋なのね」と言って、フェラチオをするシーンがあることはあるが、「一きは巧みな舌のはたらきウムと覚えず女の口中にしたたか気をやれば.....」などといった描写は、やはり一種のマナリズムで、ワイセツからは遠いような気がする。

  というのは、要するに現在では、それだけフェラチオが一般化して、その技術も進んだということなのかもしれない。かつてはフェラチオという行為を筆にするだけで、すでに良風美俗に抵触するような趣きがあったのに、現在では、実生活においても文学作品においても、この行為は頻出するのである。

  もっとも、こんな私の文章を金阜山人が読んだら、「やれやれ、今の若い者は無粋で困る」と慨嘆するかもしれない。

  野坂昭如氏は今度の裁判で、「現在の普通人に果たして『四畳半』が読めるか」という点に論争の焦点をしぼるそうであるが、たしかに『四畳半』の冒頭の前がきに出てくる「今年曝書の折.....」という言葉ひとつ取ってみても、現在では「曝書」という習慣は全く行われていないし、字引を引かなければ、若い人には何のことかさっぱり解らないであろう。さても嘆かわしいことである。

澁澤龍彦『人形愛序説』66頁〜67頁

「セーラー服と四畳半」より引用

五条悟