僕は1965年生まれだけど、およそ「文学者のイメージ」は、谷崎潤一郎、三島由紀夫、大江健三郎、小松左京、有吉佐和子、深沢七郎、等の骨太で人間の業を抉り出す重い作品に、読者も全身全霊で真面目に読み込んで感銘を受ける義務があるような世界で、その若い後継者は中上健次。みたいな潮流の中に出てきたのが村上春樹で、デビュー作の「風の歌を聴け」は遊び友達に「なんだよこんなの俺だって書けるんじゃないの」と言われたと村上春樹「職業としての小説家」に書いてあった。
大江健三郎をはじめ、当時の文壇やマスコミは、軽い文体の村上春樹をまるで広末涼子のように袋叩きで批判していた記憶がある。
だけど「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」辺りから、僕の演劇の友人などは「村上春樹以外は全部嫌いだ。」と(ギャグのシーンだけど)台詞にしていたくらいだし、「ゲームチェンジャー」だったのは間違いないだろう。
それが今や「村上春樹の一人勝ち」だもんね。
中森明菜「1/2の神話」
石丸伸二 都知事選候補 2024
(7/28の日記「...若い浮動票の感受性」より再度掲出/週刊現代の中沢新一「今日のミトロジー」より抜粋)
「フレームを壊す」
猿のボスの場合は体つき等を誇示することで相手にマウントポジションを仕掛ける。ところが石丸伸二氏は「フレームを壊す」という知的な(?)やり方でマウンティングを行う。
人間同士のコミュニケーションは「話題のフレーム」を決めることから開始される。フレームが決まらないと、対話はできない。
ボウリングのピン(10本揃い) ①
ところが石丸氏は、このフレームを壊すことから始めるのである。対話に必要な枠組み(フレーム)を無視し、はじめから認めないという態度を示す。すると対話は不可能になり、議論は並行状態を保ち続ける。
ボウリングのピン(スプリット)②
このテクニックは昔から政治権力者達が用いたものだが、石丸氏の新しさは、今日のメディア状況に合わせて、破壊的でシャープな戦法で蘇らせた点にある。
これには常識を持った知識人は、あきれてものも言えないだろう。
しかし石丸氏は、彼ら知識人が信じている「議論のフレーム」そのものを、信じていないのだろう。
そういうフレームの中で、どんなに議論や対話を繰り返しても、
「世界はちっとも変わらない」と彼は考えているのだろう。
問題は、そういう石丸氏を、沢山の若者達が(都知事選の政治の選挙で)支持している、という事実である。(中沢新一)
石丸伸二の都知事選での支持者(165万票)
▶ 村上春樹は「一番大事なのは読者の方々」と言ってるし、作家の力量を試される「長編小説」でも「のべつ幕なし力んで書いてると、ぼくはともかく読者の方が疲れちゃう」とも言っている。
三島はそういう読者のペース配分を考えて書いてたのかな.....?
例えば少年ジャンプにしても「アンケート主義」や「新人発掘主義」など、与党(送る側、ライセンサー側)の一方的な圧力のある編集方針ではない。
サルトル風にいえば「読者と書き手を漫画の集合無意識の疑似社会に参加させる」という感じかな。
書きながら考えてるからインチキになる前に切り上げよう。
日本人にもアメリカ人にもまだわかっていない不確かな群像のデッサンだし。