チャールズ・リケッツ「ファウストとメフィストフェレス」1930年
日記は詩歌や戯曲と違って校正や推敲をほとんどしない。「無くて七癖」というが自分の「筆癖」に辟易うんざりする事シバシバだ「だが」「とか」ここね。人はよく「逆に言えばさ...」と逆にひっくり返せない半端なレトリックを使うけど、それと同じ。句読点の読点で締めればいいだけなんだけど面倒だから放ってある。メロス(律動)が走り出すとEveから電話がかかってくる。「もしもし。わたし。まだ切らないで!」♪小猫を膝に/長電話した/少女へと戻りたい/ah/もっともっと/あなたを/もっともっと知りたい/今何してるの?/今何処にいるの?/そして愛してる人はダ・レ・デ・ス・カ?/エヘヘ...◀ここにもメフィストフェレス。
(薬師丸ひろ子「あなたをもっと、知りたくて」)
「生物と無生物のあいだ」や、自衛隊の戦略等を設計する人が「動的防衛」と引用したのにリスペクトが足りない、俺の陸眼は誤魔化せない、引用元の文献「動的平衡」で御馴染みのこの人は、最先端の分子生物学者だったのだが、研究仲間から「君は生物生物と自慢気に語っているが、DNAをカットアップしたり、やってる事は「死」のことばかりじゃないか」と◆批判と説法教化されてガーン!BAKKOOOM!と悔い改めて「生物学者」と肩書を変えた。
ヒュー・ロフティング「ドリトル先生航海記」1922年(翻訳は井伏鱒二)
ノスタルジアの蝋燭
好奇心のスタート地点に戻って出直したんだね。それでも「練習は嘘をつかない」。研究を積んできた経験は血肉になってTURN OVER(新陳代謝)の骨格になっているから普通のパンチ言語が重く深くなっている。
三島と澁澤
「サド裁判」の澁澤
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」(悪人正機)▶これもファウスト博士とメフィストフェレスのレイヤー(地層)の表現。
別に違っても構わない。作家でも学者でもないし、足の爪にこだわって肝心のオメコを見逃すような愚行はしたくない。そういうのは編集者がやるものなのだ。
▶だから校閲も編集もしない「機械仕掛けの生成AI」が、どれだけ高品質な文章を捏造したとしても、それは単体では「便利な悪」「悪戯」でしかないはずなのだが、人間が間違えて使うと「原子爆弾級の巨悪」に成り下がってしまう。
徒然に書いた上記だって「これ、調べて揃えといて」と金属人工知能AIに発注する気にはならない。ページを変えて続きを書く。