生成AIと神話(原典)のズレと歪み

僕の変態日記を見ればわかるように、言語、特に日本語はデリケートで、句読点ひとつ、画像の順番と修飾語を少し変えただけで意味合いが変化する。

サム・アルトマンを旗手とした生成AIのプロジェクトは、おそらくここに「アメリカン・イングリッシュの標準語」を通そうとしているのだろう。スパコンでパターンを超計算して。

出口なお

大本教の教祖でシャーマン型だった彼女は文盲だったらしいが、憑依状態で自動筆記するので周りの人が驚いたらしい。でも養子の出口王仁三郎と「古事記」を原典とした喧嘩をするなど、結局は神話の重力装置に飲み込まれている。

同じくシャーマン型の文芸評論家が中上健次に「あなたは本居宣長の生まれ変わりよ」と言ったらしいが、名刺交換もしたことないのに本居宣長をよくご存知らしい。

宇多田ヒカル「オートマチック」

このように、感嘆したり違和感がある場合に人は「◯◯に似ている。しかも本質が」と根拠を求めたくなるものだ。

▶ 生成AIはそこに切り込もうとしている。だから危ないと言ってるんだよ。

日本はともかく、海外はピストルも持ってるし気性が荒いんだから。

竹田青嗣プラトン入門」

プラトンは大学(アカデミア)を作った人

竹田青嗣のコラムから引用)

この現代哲学における「認識の謎」の膨大な議論のうちに、プラトンを、たとえば言語哲学の名篇『クラテュロス』をおいてみる。

ここでも、すでに、言語における語の多義性や客観認識の可能性といった中心問題が微に入り細を穿つ仕方で議論されているが、とくに語源学を追いつめた果ての結論が見事である。ヘラクレイトスパルメニデスをはじめとする哲学者たちもよく思考を追いつめたが、しかし一つの重要なことに気づかなかった。

人はしばしば、言語の本質の問題を、論理学的、系譜学的に追求することに熱中するが、そのうちには哲学の本質的問題は存在しない。何がもっとも深く考えつめられるべき問題なのか。思考がそれを見逃すとき、つねに言語や論理についての大騒ぎの議論が始まる。

サム・アルトマン

要するに、かつてブッダが毒矢の喩えで「形而上学の禁止」を論じたように、膨大な哲学的議論が、最も本質的な問いからはまったく無駄なものだという可能性がつねにある。

私の考えをいえば、現代哲学の認識論的、言語論的な膨大な議論にプラトン哲学を対置すれば、それは、かつてのスコラ哲学の膨大な議論と似た、言語と論理についての無意味な「形而上学」のように見えてくる。

プラトン発想の転換はきわめて鮮やかである。人間の人間性、人間の本質の普遍性はどこにあるか。

またその認識の可能性はどこにあるのか。それはまず「美の普遍性」ということに、そしてそれを支える「善の普遍性」ということがらのうちにある。

言語を記号あるいは論理とみなすかぎり、けっしてこの問題について本質的な設定を行なうことはできない。

これがプラトンの考えだった。
われわれはなぜ、美(あるいは善)に引きつけられ憧れるのか、美や善への欲望の本質とは何であるのか。

この問いに接近するためには、価値、エロス、欲望、といった問いについての新しい哲学を必要とする。
これがプラトンの「善のイデア」説の要諦なのである。
2015年7月1日更新

映画「パピヨン