功利主義をクラッシュしてみよう

「裏金」や「バラマキ政策」等がその関係者間で「功利主義のマジョリティ化と、政治家と選挙の有権者ステークホルダーのシャーマニックな共犯関係」が暗黙の了解として蔓延しているのが退廃の一因かもしれない。

Wikipediaより引用)

功利主義の訳語
19世紀後半、西洋から日本や中国に功利主義が伝来した際は、「功利」以外にも「楽利」などの漢訳案が出されていた。

「功利」という漢語は古くからあり、2世紀の『漢書董仲舒伝における儒者董仲舒の言葉に特に由来する。

その董仲舒も含めて、儒教では伝統的に

▶「功利」は「義」と対立するネガティブな単語として用いられていた。

菅原文太

▶ 義(ぎ)とは:
人間の行動・思想・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念である。

義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」(広辞苑第6版)。

対義語で、行動・志操・道徳が「わるい」「よこしま」を意味する概念は「奸」(かん)という。

義眼

漢字における「義」には、本来「外から来て固有ではないもの」という意味があり、
義手・義足や義父母・義兄弟などの語にはこうした意味があるが、後には血縁関係にない仲間同士を結び付ける倫理を意味するようになった。

更に時代が下って後漢末期に入ると「他者と共同で行う第三者のための事業」という意味も発生し、義舎・義学・義田などの無償の施設などを指す言葉としても用いられた。

儒教における「義」

儒教における義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。

正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。

孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。

羞悪の心とは、悪すなわちわるく・劣り・欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を羞(は)じる心のこと。

 

キリスト教における「義」

キリスト教における義という訳語は、ギリシア語でΔικαιοσυνη dikaiosynee ディカイオシュネーと呼ばれるもので、罪の対立概念とされる。

これは他者に対して義(ただ)しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態をいう。義しい人を義人と呼ぶ。

福音書パウロ書簡などで主題化される。

神によって「義とされる」(義とする:ディカイオオー)ことも同じ問題圏に属する。

ラテン十字

真に義であるのは神のみである(「義人はいない」)が、人間は神を信じることにおいて義さに近づくことができる。

信じないことは不義と同義であるとされる。『ヤコブの手紙』によれば義しさは、神への信仰を表明することのみならず、他の人間に対する行為において現れる。

ルターは人が行動において義とされること(行為義認)を否定し、信仰によってのみ人が義とされる(信仰義認)と考え、それまでのキリスト教で行われていた苦行、断食などを否定した。

▶ 日本語における「義」

義(ぎ)は、日本語で漢字を用いる際の

「意味」を表す。
漢字の三要素は字形、音、字義とされている。用語を判断する基準となる。

女子高生

義理チョコ

▶ そもそも今の老若男女は「義理」をどういう意味で認識しているのだろう。