位相・波羅蜜・異端と正統のあいだ

シンクレティズムの名手  桑田佳祐SAS

Wikipediaより引用)

異端(いたん、英: heresy)とは:

正統との対比で生ずる概念である。下記はその辞書的な定義である。
正統から外れたこと。学説で正統と

対立する異説。系統で正統と対立する異系統。

その時代において正統とは認められない思想・信仰・学説などのこと。
多数から正統と認められているものに対して、少数によって信じられている宗教・学説など。

本来の教義を忠実に継承していないこと。統治者である事に相応しい理由を持っていないこと。

宗教において、正統を自負する教派が、正統とする教理・教義に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。

阪神ファンアンチ巨人ファンのアレの記事

宗教学辞典などで、異端は正統あっての異端、つまり「異端」という概念は「正統」という概念があって初めて成立するものであり、それ自体で独立に成立する概念ではない、相関的概念である、とされている。
また哲学事典などでも「正統」と「異端」は動的な対概念であるとされている。

従って、「異端」という概念だけを説明しようとしてもうまく説明できない面が多々あるので、本記事では「正統」と「異端」という概念の両方について総合的に解説しつつ、その中で「異端」という概念も解説してゆく。

概説
「異端 (英語: heresy, 英語: heterodoxy)」は「正統 (英語: legitimacy, 英語: orthodoxy)」の動的な対概念である。
訳語として、heresy と legitimacy は「系統」の異端と正統を表すのに対して、heterodoxy と orthodoxy は「教義」「学説」(= doxy)の異端と正統に重点が置かれる。

宗教学辞典などで、異端は正統あっての異端、つまり「異端」という概念は、「正統」という概念があって初めて成立するものであり、それ自体で独立して成立する概念ではない、と説明される。
「正統」と見なすものがあり、それではないものを「異端」と見なすということである。

正統から外れたものと見なすこと、異端として扱うことを「異端視」と言う。正統と異端を総称して「正閏」という(用例:正閏論)。

デヴィッド・ボウイバロウズ

何が正統で何が異端かについての論争は「異端論争」と呼ばれている。
例えば、キリスト教で言えば、アタナシウスの教えを正統としアリウスの教えを異端としたニケーヤ会議(第1ニカイア公会議)は歴史的かつ典型的な異端論争である。

儒教でも、異端に対する徹底的な排撃が起きた。キリスト教イスラム教などでも、大きな事件が起きたこともあった。

イギリスのワーバートンが述べた「正統は私の意見であり、異端は他人の意見だ」という表現にも端的に現れているように、異端論争には主観主義的な要素が含まれる傾向がある。

正統/異端の区別は、思想やイデオロギーなどにおいても重大な関心事となる。

いきものがかりゲゲゲの女房の主題歌」

例えば、マルキシズムのように絶対主義的な主張内容を含むイデオロギーなどでそうなる。
政治面では、スターリン主義が他の共産主義諸派を異端として排撃し粛清した事件がある。

経済面では、(日常的に資本主義社会の中に埋没して生活していると見えなくなってしまっているが、)資本主義社会では、資本主義的自由経済主義が正統視され、強調されすぎており、経済に関する他の主義(共産主義統制経済など)は異端視され排撃されている。
同じく、北朝鮮では、政府は「朝鮮民主主義人民共和国」を称しながら、支配者たる金王朝の思想である主体思想のみが正統視され擁護され、国号に含まれる民主主義が異端視され排撃されている。

なぜ絶対主義でそれが重大な関心事となるかというと、教義を正しく理解しその唯一絶対性を守ることに熱心であると、それは同時にその絶対性を害なう存在に対しては厳しい警戒の念を抱くことになるからである。

上述のように、正統/異端の用法は、宗教的領域からはじまって、政治・文化・経済などの領域にまで広く用いられている。また同様の概念は、広く学問(科学)等々の領域でも存在している。

「異端」という語は、歴史的背景から現代でも基本的には何かしらの反感や嫌悪感を込めて使用されているが、
芸術など創造性・独創性が高く評価される分野においては、賞賛の言辞として用いられることもある。

上述のように絶対主義などでは異端を極端かつ無条件に排撃してしまうが、(異端が存在することを許し)異端を常に生んでゆく思想というのは、創造的な思想だとも言えるともとも指摘されている。

既成宗教の問題点を指摘し、人々のためにその変革を試みる人物は多くの場合、既成宗教から最初は「異端」と見なされることになる。

猗窩座

 ブッダは、当時のインドの既存宗教勢力から異端視された。イエス・キリストはローマ支配下ユダヤの律法主義者から異端視された。

ヨーロッパ中世で一旦腐敗したキリスト教会の問題点を指摘したプロテスタントの人々も当初は異端視・迫害され、米国などへ逃れる必要も生まれた。
たとえ「異端」と見なされ排斥されても、それでも、より良い宗教を求める人々によって、既成宗教の問題点が改善されてきたという歴史的事実がある。

呼称
漢語としての「異端」は、儒者儒教以外の思想、つまり老・荘・楊・墨などを指して用いた。

「異端」という語の用い方として、宗教学辞典では、「異端」を同一の宗教やイデオロギーを共通基盤として成立するものの間における対立的立場で、正統に対する異端であって「異教」とは異なる、との説明が掲載されてはいる。

(つまり学者の立場では、用語ごとに厳密に区別することで学術用語的なものにしたい、という考え方がある。)

ただし、実際の用法としては(#キリスト教における異端や#儒教における異端など節でも解説するように)異なった宗教を指すためにも用いられている。