仏教とグノーシスの比較

澁澤龍彦

澁澤や中沢新一の本を読んでると「グノーシス」という宗教がたまに出てくる。

映画「インド夜想曲

俳優のジャン・ユーグ・アングラードを推している頃に観た映画で、VHSのビデオパッケージの裏面の左下の場面で、立ちすくした彼が「グノーシス」と呟く。

漫画育ちの僕にはとても刺激的なテーマで、この教義は基本的に「現在の物理現実を、悪に支配された状態と設定し、真の叡智で、闇を祓う」というものと記憶している。

.....はて、何かに似ているような気が。

そう。仏教の「四門出遊」を連想した。

四門出遊のイメージ図

苦諦(梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、
迷いの生存が苦であるという真理。
苦しみの真理。

人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。
このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

グノーシスのシンボリックな絵

グノーシス主義(独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(希: Γνῶσις)は、
1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。

グノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味し、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。

・道徳
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。

前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。
後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳を恣(ほしいまま)にするタイプである。

4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる。

グノーシス主義を語る上でメッシーナ提案は研究者たちの共通基本認識として前提となる。(Wikipediaより引用)

メッシーナ師範代とロギンス師範代(ジョジョの奇妙な冒険

週刊現代連載「今日のミトロジー 第93回」(中沢新一)より再度引用
「宗教と贈与」
いまでは宗教と世俗社会との見分けが難しくなっているが、原始的なことを言えば、

宗教は社会の外に出ようとするものである。

世俗の社会に埋没してしまえば、もう宗教としての本来の意味はなくなってしまう。

現実の社会を成り立たせている原理を、宗教は認めていない。
社会が矛盾に満ちていることを認められない人たちが、宗教に心を向ける。

そして社会を成立させているのとは違う、より整合性のある理想の共同体があると信じた人たちが、各宗教の提案する理想の共同体に加わろうとする。

これが宗教の原理であって、大昔からこのことはずっと変わっていない。

旧約聖書出エジプト記」のイメージ画像

▶ 出家とか、「苦しくて辛い社会の外に出る。解脱する。」という目的やメタファーは確かに共通点がある。

ただしユダヤ教キリスト教等の一神教の場合は「超越」「奇跡」が非常に大事なキーワードなのに対して、ブッダは神ではなく「目覚めた人」なので、座禅を組んで人畜無害に沈思黙考しているイメージがある。ここのヒンドゥー教を並べると位相・波羅蜜が変化するのだが、サルトルが言う「アンガジュマン」のように、社会参加することで成就するアイデンティフィケーションは、一神教でも多神教でも、宗教の始点とは真逆のことかもしれないと驚いてしまい、こうやって書くことで整理してはいるのだけど。

科学でもによね。

長い年月でスーパメジャー化した原始宗教は、普遍的に浸透しているからそのことが分かりづらい。

だからグノーシスという言葉には秘めた魅力が宿るのかもしれないが。