天皇機関説と神機関説/宗教と生成AI ②

玄関の上がり框の段差解消用手すりと踏み台

レベッカ「MOON」

▶ まあAI(電子頭脳)のシンギュラリティ(特異点)の頃にはおそらく僕はこの世にいないので、どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど、困る人もいるだろうから、ヒントの断片を日々書き残しているのだが、こういう場合にインターネットの分散型の特性は便利だと思う。エシディシみたいに封筒に切手を貼らなくてもいいし。

西垣通は新聞のインタビューで「生成AIの開発理念の背景には、一神教文化圏の思想がある。」と言っていた。

一神教多神教の違いというのは、単に神様の人数や序列や役割の問題だけではなく、それについては少し遊んでから文献から引用する。

前述した谷口雅春生長の家創始者)が

(再引用)

神道や仏教、キリスト教など諸宗教は、その根本においては一致しているという「万教帰一」の立場を取っている。

第二次世界大戦期に急速に右傾。

国家主義天皇信仰・感謝の教えを説いた。こうした教えを記述した雅春の著作は、信徒間で「愛国聖典」と呼ばれた。

▶ こういうシンクレティズム(融合主義)のΣ(シグマ)にいる絶対者が「天皇」というような大正時代の政教一致の「国家神道」の頃に

美濃部達吉

宿儺の領域展開「伏魔御厨子」を六眼で見抜いた無下限呪術の五条悟

wikipedia引用

天皇機関説とは:
大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、

天皇日本国政府の最高機関の一部として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。

ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックに代表される国家法人説に基づき、憲法学者美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束上杉慎吉らが主張)などと対立する。

隣組

大政翼賛会の選挙ポスター

天皇や国の悪口を言うと、天皇に直接半殺しにされるわけではないので、庶民が恐れていたのはその取り巻きであり、システム化された恐怖に統治されていたのだと思う。

美濃部達吉の時代はその実相が今とは比較にならないほど生々しかったのだろう。

赤狩りで警察に虐殺された小林多喜二(作家)

ラベンダーの香りでタイムトリップする映画「時をかける少女

シニフィアンシニフィエソシュール)のイメージ図

日本語の領域で暮らしていると、「空気、シニフィエこそが言語伝達で大事」とそれが当然のように会話しているので

宿儺の伏魔御厨子より自分の無量空処の能力の方が優れていると判断した五条悟

▶ 言語の豊かさにおいて、日本語が生成AIなんぞに負けるわけがない、と高を括っていたのだが、一神教の骨法を調べていくと、どいやら様子が変わってきた。

中沢新一「緑の資本論」より引用)

横断性をそなえた流動的知性は、日常生活で諸領域に特化された知性よりも、はるかに高い強度をそなえている。そのために、その横断的運動をイメージ化した、動物や植物の領域に向かってメタモルフォーシスをとげていく神々は、人間の持つ力をはるかに凌駕した「超越性」をそなえることになる。大帝国の王たちは、こうした神々を崇拝し、それと一体になることによって、国家の権力にそなわった「超越性」を誇示しようとした。

一神教を生み出すことになる民たちは、このような想像界で働く「超越性」を、根底から否定しさろうと試みたのである。

「わたしはある。わたしはあるという者だ(ヘブル語で「エフイェ  アシェル  エフイェ」)」

生成し、変化し、増殖をおこし、メタモルフォーシスする神ではなく、ただ「ある」としか言わない神、いっさいのイメージを拒絶して、ただ名前だけを持った新しい神の出現。

ここに、人類の「第一次形而上学革命」(ミシェル・ウェルベック素粒子」)が開始される。認知論的に表現すれば、いままでは自分たちの大脳の中で生起している流動的知性の働きの中に、メタモルフォーシスをおこなう横断的な強度(この強度の本質は「多」)を見出してきた人類が、その流動的知性の奥に、なにものにも限定づけられることのない、どこにも領域化されることのない、どんな特定の性質にも染まることのない、完全に静謐にして、おそるべき力をみなぎらせた実無限を発見し、それを「一(いつ)」であるものとして表現しはじめたのである。

(中略)

では歴史への一神教の出現によって、じっさいにはなにが変わったのか。いちばん大きな問題は、魔術的思考にじつに手強い敵対者があらわれたということである。

想像界を満たしているイメージの豊穣さを、少しも価値あるものとは認めない思考をする人々があらわれたのである。

象徴界という唯一神の内部構造と現実とが完全に一体であるような状態こそ、流動性知性を本質とする人類という生物が、自らを成長させていくべき目的の地にほかならない、と考える新しいタイプの思考。

(中略)

もしも「神」という言葉で、流動性知性の奥に輝く「一(いつ)」である「わたし」のことを言い当てたいなら、他には同じ「神」と呼ぶことのできるものはいないはずである。

象徴界想像界をその豊穣さゆえに嫉妬する。ロゴスである父が、自然である母を嫉妬するように。

「わたし」は変容するもの、生成変化するもの、自己増殖するものを嫉妬する。

そうしたものへの愛は、流動的知性からその霊性を奪うからである。

イメージの絶対的貧困の砂漠において、「わたし」を発見し、ただ「わたし」だけを愛しなさい。

緑の資本論