2019年の尾身茂
コロナ禍の街のマスク着用の風景
村上春樹「1973年のピンボール」や大江健三郎「万延元年のフットボール」より遥かに圧倒的に世界的な社会現象のコロナ禍でリーダーシップをとった尾身茂は、政治家ではない。医者だ。
日本医師会は確かに医師の集合体だが、れっきとした政治団体で、その影響力の強さの理由は、福田赳夫が言っていたように
「政治の課題として、命は重い。」
という事。
「命は経済より重い」というコモンセンスで「一億総マスク着用」でここ何年も暮らしてきている訳でしょう。
全共闘運動のような派手なムーブメントは「政治の季節」等と名前をつけて象徴化して飲み屋で語られるけど、コロナ2019は射程が広すぎて、マスコミも識者も松坂慶子「愛の水中花」の歌詞のように
「これも政治。あれも政治。」とデザインした発信ができていない。
政治とは、否応なく自分も他人も巻き込まれるものであり、「選挙に無関心」とは次元の違うパラダイムがないと、若者は理解のしようがないでしょう。
1991年の湾岸戦争のニュース
前にも書いたけど、当時のワイドショーで繰り返し流れるこの映像と、経済学者の解説で「戦争は経済の失敗の先にあるものなんです。」と執拗にアピールしていた空気感を覚えている。
膨大な情報量の中で、人間の脳は象徴化や矮小化を認識に施して略語やショートカットしようとするタイパ&コスパ本能があるのだが
ドスの「罪と罰」もそうだけど、この小説のようにピクトグラム化してしまうと
「戦争の対義語は平和」と安いアウフヘーベン(止揚)のトレードオフで多様性を失ってしまう。昔のWikipediaの「平和」にも「戦争してないこと」と書いてあったし。
ユヴァル・ノア・ハラリは「ホモ・サピエンスの歴史」という長い尺度の思考回路を持っているので、今回のイスラエルとハマスの戦争の原因を「戦争になるような政治のやりかたが間違っていた。」と言っていた。
この観点から見れば「戦争と政治」が対義語になるのかもしれない。
霊鷲山(グリッダクータ/インド)
仏教の背骨のひとつに「因果因縁」がある。
「どんな結果にも原因がある。」という教えだが、これを「原因という名の犯人捜し」のトーンで追求するときりがなくなる。
なので
僕のような深読み裏好きのタイプにとっては
「宇宙の始まりも終わりも考える必要がない、定常宇宙論」が、いい具合なんだよね。
歌謡曲や漫画の決め台詞の「今・ここにいます」とはそういうことでしょう。
「ゴーギャンが何処からこようと何処に行こうと知らねえよ。飽きたら捨てるだけ。」
こんなカンジ。
映画「武士の家計簿」
さて。本日の本題。
江戸時代の官僚はこの画像のように正座して背筋を伸ばして仕事をしていたので、椅子に座って暮らしていた西洋人に比べて足が短くて太い。
それでも椅子に座りっぱなしも体によくない。だからといって一人で勝手に
草刈民代のように手すりに掴まってストレッチをする事もできない。
何故できないのか。
尾身茂
「声なき声のニーズ」と「根拠」があるならば、そういうものの為に「権力」を正しく使うべきだと思うけどね。
認知症になりやすい糖尿病患者と予備群の推計
認知症患者の推計グラフ
田舎の女子高生
病気予防の金もかからないし。