価格イメージ論。戦争とコスト

ディスカウントショップ

以前大型ディスカウントショップのバイヤーさんと話をした時に「この仕事を長くやってると、売れる売れないと値段のイメージができてくるんだけど、それはその値段では売れないね。ウチの店では」「いくらなら飛ぶように売れるんですか」「...このくらい」「えー...」という事があって勉強になった。

スーパーの野菜売り場

コンビニの冷蔵庫

昭和5年に720円で当時の価値で家を建てられる程の価格だった電気冷蔵庫は、単身独居世帯の場合コンビニエンスストアがその役を担っている場合もある。小ロットで新しい物を買えるし散歩にもなるからね。昔は立ち読みもできたんだけど。

コンビニが社会のインフラになるまで成長したのは「便利」なだけではない。

「定価」で販売するからメーカーの営業部が重要なチャネルとして大事にしたからだ。

戦争と平和のカタストロフィー理論

ポル・ポト政権下の街の風景

囚人の暴動のカタストロフィー理論

人がせっかく作った物を破壊し尽くす「戦争の超不経済」を、テレビとはいえ目の当たりにしてガソリンの高騰やインフレ値上げの煽りも受けながらキャッチした記事に「逆転の発想。あの国はなぜ戦争をしないのか」が面白かった。理由は「コストがべらぼうに高いから」で「経済感覚が維持できていれば戦争が起きにくい」のである。

怒りと恨みと憎悪、嫌悪でこれ(価格イメージ能力)が麻痺しちゃうのかもね。

岸田文雄首相とゼレンスキー大統領

ついこの間の首相のウクライナ訪問で「殺傷能力のない範囲で40億円の支援を約束」したのは重要な事ではあるけれど、

ワールド・ベースボール・クラシックWBC)の侍ジャパン

文庫本のように作品ごとのセパレートではなく、同じテレビ筐体の画面でこれ▲と平行してウクライナの電撃訪問を見たからといって

「頑張ってください大統領。ご武運を!」と気分と倫理観が変わってしまうのはどうなのよ。と思うわけ。「終わってしまうのが惜しいくらい」(大谷)のナチュラル・モンタージュとか。

▶だから僕の価格イメージ領域の審美眼からすると「Googleや生成AIを無料で使い放題なんてオカシイ。何が目的なんだ。」と疑問に思ってしまう。

▶実はネットの「三つ子の魂百までも」の習慣で「無料でいいや。広告でがっぽり儲かるし」と惰性で走ってるんじゃないの?