ハイパーコラージュの格

サムノスケ・サムタロウ

▶ 元々ぼくは「呪術廻戦」を超速読した際に「これは、ゲーム世代のシニフィエと文脈だな。自分のゾーンの射程外だね。あばよ」と興味がなかった。高齢者介護という流行を追いかけさせられずに済む業界にいるし。

だが最近、

劇団 山の手事情社

▶ 高羽史彦(呪術廻戦)が突然割って入ってきて、中途半端な変な術式を使うのを温かい目で見守りをしているのだが(冒険は必要なんでね)、五条のファイナル・エピソードで「ドミノストッパー」を入れたり、映画風のカットアップを目指しているのかもしれないが、下手なので紙飛行機を折る事にした。

山の手事情社「ゆるやかなトンビリラロの身だしなみ」

▶ 演劇は「1回性の総合芸術」なので、当事者達でも同じ現象は起こせないのだが、舞台と客席が、個々人の相対性はあるとしても、同じ物理時間を共にしているという大前提がある。

ブレヒトが言う「不条理(原因と結果が一致しないこと)」や、ゴダール風のジャンプカットで爆笑できるのも、時間と肉体のテーゼがあるからで、初心者が見様見真似でチャレンジすると

(バンド)DEAD ENDの推しに「違うんだよお前。わかってねえんだよ」と睨まれてしまう。

まあそれは洗礼みたいなものだけど、戦闘狂の作者の祝詞(のりと)で唯一詩的な

▶ 左下の「表裏の間(はざま)」

蓮實重彦が「映画の編集のカットアップはどんな監督でも用いる技術だが、誰もゴダールのようにはできない」というのは、「表裏の間・行間」に「御阿礼(ミアレ)」「風」「詩」を起こすのは容易ではないからである。

たまにまぐれ当たりはしても続かない。「レプリカントテスト(ブレードランナー)」みたいに。

エルンスト・カントロヴィッチ「王の二つの身体」

Wikipediaより引用)

『王の二つの身体』 (英語: The King's Two Bodies)は、
1957年に刊行されたエルンスト・カントロヴィチによる政治思想史の研究書。
「中世政治神学研究」との副題がついている。

カントロヴィチの研究によれば、ヨーロッパの王は自然的身体 (body natural) と政治的身体 (body politic) という二つの身体を持っている。

自然的身体は死すべき身体であって、偶然や不確実性、生物的な虚弱性の脅威に脅かされる。 

ブラフマナス・パティの位相・波羅蜜

一方、政治的身体は見ることも触れることもできない身体である。

それは政策と政府から成り、人々を導き、公共の福利を進める身体である。

この身体は自然的身体の欠陥や弱点を免れている。自然的身体は政治的身体を具現化する。

カントロヴィチは本書の中で、ヨーロッパの王の二つの身体が統一されており、王が生きている限りは分離されることがないという神学的思考を歴史的に辿ってみせる。

この神学的思考はキリストの受肉が下地となり、清教徒革命、ひいては民主主義の精神の母胎となったという。

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▶ 政治的保守派の人が「天皇は現人神(アラヒトガミ)」と言うのは、何を文献にしているのだろう。

ではまた。