僕は小学校3年から硬式野球をやっていて、暴走族やツッパリ漫画全盛の時代でも
「お前は甲子園を目指してるから◯◯中学との死滅回遊に参加しなくていいぞ」というような、野球に対する子供たちの夢や特権意識が今よりも強かった。
そんな僕にも思春期が訪れて、僕の野球を楽しみというより生き甲斐にしている父親が嫌で嫌でたまらない時があった。
「自分の人生なんだから自分で楽しみを見つければいいじゃないか」と思っていた。
工藤静香や(宮沢)りえママ、あるいは一定数の親バカ集合体にそういう傾向があるのかもしれないけどね。
映画「ヘルタースケルター」
生き甲斐(ikigai)の概要図
(引用)
「天皇のために死すべき存在」だった兵士の死は、天皇と結びつかぬ限り実体を持ち得ず、天皇もまた兵士の死と結びつかぬ限り実体を持ち得ない。
と断じている。
石清水弘(愛と誠)
これは結びの対象が恋愛に差し替わったとはいえ、上野英信の文章と地続きなのかもしれない。ステイタスは「漫画」にダウンサイジングしてるけどね。
孔子は「我未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」と言っているが、
「人はパンのみで生きるに非ず」とキリストが言ったのと同様に、人間が生きていくには「甲斐」というものが必要なのだろう。
だから
釘崎野薔薇の死亡シーン
▶ 呪霊が相手という事もあり、生きてるのか死んでるのかもよくわからない「呪術廻戦」は、ある意味現代の若者文化の空気が投影されているのかもしれない。
なとり「Sleepwalk」