映画「ドライブ・マイ・カー」
ビートルズ「ドライブ・マイ・カー」
▶ サウスポー(左利き)の坂本龍一が「EV Cafe」で「クラシック音楽を体系的に位置づけていくと、同時代人のポピュラー音楽として感情移入して楽しめるのは、300年位かな...」(意訳)と言っていた。
別の対談集では「バッハは好きなんですよね。多くのピアノ曲が、左手が伴奏で右手が主旋律という構造だけど、僕はサウスポーなのでどうにも悔しくてね。でもバッハは左右均等の曲作りをしている。」(意訳)
ソーシャルワークの家族療法の概要図
藤井聡太名人の揮毫「温故知新」
▶ こいつが凄いところは、AI将棋を呑み込んだ最前衛の棋士なのに、こういう表情でこういうことを書くから先輩棋士や輿論を敵にまわさない。普通はこのくらいの実力があれば
▶ こういう「火花を散らす挑発合戦」でボルデージ(興奮)を上げたがるものなのだけど。
大谷翔平のスイーパー
▶ 精神科医の斉藤環が新聞で「藤井聡太や大谷翔平だけではなく、最近の天才は、古くからのステレオタイプの‘’狂気と天才は紙一重‘’という二元論ではなく、ダークサイドが不明、あるいは無視する傾向があるのかもしれない」と語っていた。
映画「ノルウェイの森」
僕はこの映画はYouTubeで予告編しか観てない。
お気に入りの漫画がアニメ化された時の声優の声と自分のイメージのギャップで、青春時代の脳内編集してマスタリングしてある思い出が壊れるのが怖い、という感覚は誰にでもあるでしょう。
だから父親は父親としての役割で振る舞うが故に、子供と同世代の友人の感覚で漫画や新作映画を楽しむことができない。
それはある意味健全な境界・結界でもあるのだけど、世の中を実際に動かしているミドル&シニアエイジが、視聴率や影響力でしか子供のニーズをアセスメントできない状況が、アミロイドβのように蓄積して、今の場当たり的なその場しのぎの政治の一因になってると思うんですよね。
なとり「Overdose」
ディズニー映画「マレフィセント」
(Wikipediaより引用)
権威(英語: authority, power)とは、
他者を服従させる威力、ある分野で知識・技術が優れていると信頼されていること、またそのような人。
自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別されることもある。
代名詞的に、特定の分野などに精通して専門的な知識を有する人などをこのように称することもある。
教授(坂本龍一)
ラテン語の「auctoritas」に由来する語で、その意味は「保証、所有権、担保」であり、他動詞的に用いられる言葉である。
より詳しくいえば、1)「追加・後見」、2)「創始・開始」、3)「高齢・個人・人格」という三つの起源的部分観念に基づきつつ、ローマ社会の変遷に応じて構成された概念である。
他者に対して権威的であるためには、その両者がある種の価値体系、規範を共有していることを前提とする。
その上で、その価値体系、規範における上位の人・地位・組織などが権威を帯びることになる。権威を生じさせる集団のあり方は様々であり、例えば神秘的、非合理的な宗教団体における教祖と信者の関係でも、合理的研究を追求する研究所内における専門家と研究員の関係でも権威は生じる。
権威は必ずしも個人に付帯するわけではない。
ある立場・地位のみが権威化され、そのポジションにおかれた個人そのものに権威がともなわない場合もある。
いわゆる権威的な職種に携わる人が、その地位を象徴する制服やバッジを身につける限りは権威を行使できても、そうした装置をひとたび外せば権威が失われるのはその一例である。
ではまた。