今週の若旦那

空天雪とペアの女/逸茂エルク「ツー  オン  アイス」

10年程前の東京新聞の夕刊で、SNSの炎上を憂えた記者が「論破するのは簡単だ。相手の対立軸に圧倒的な作品を立てて崩して行けばいい。だがそれは批評ではない。」と書いていた。

「美」や「技の強度」をフィクションで表現するのは難しく、

原作:雁屋哲、作画:池上遼一「男組」

このように説明で箔をつけるのがセオリーなのだが、逸茂エルクの今回の若旦那の扱い方は、お見事。

Wikipediaより引用 ①)

メタフィクション(英: Metafiction)とは、

フィクションについてのフィクション、小説というジャンル自体に言及・批評するような小説のこと。また、「メタ」と略して使う人も多い。

吉野朔実「period」

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メタフィクションは、漫画・アニメ・小説などにおいて「それが作り話だ」ということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。

メタフィクションの自己言及の方法には、例えば、小説の中にもうひとつの小説について語る小説家を登場させたり、
小説の内部で先行作品の引用・批評を行ったり、小説の登場人物を実在の人物や作者と対話させたり、あるいは作者自身を登場人物の一人として作品内に登場させる、といったものがある。

▶ 映画「エンジェル・ダスト」の南果歩の自我が崩壊する場面を思い出した。

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セルバンテスの『ドン・キホーテ』は2部構成だが、第2部は作中で第1部が出版されているという設定であり、劇中で主人公が自分について書かれた小説に言及する。

近代文学では芥川龍之介が『羅生門』で
「作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。」、
「だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。」と記した。

メタフィクション」という用語は、アメリカ合衆国の批評家・小説家ウィリアム・H・ギャスの1970年の論文から使われはじめたものと推測されている。

日本では、筒井康隆などを論じた高橋康也の「メタフィクション覚え書き―筒井康隆論のための小さな助走」(『新潮』1983年5月号)から一般化した。