インターネットのゼロサム承認欲求

宮沢賢治

わたくしという現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です。.....

ベートーベンの肖像画

▲これの真似をして、大正時代の岩手県では超ファッショナブルな外套を着て、笑いを堪えている写真なのだが、マスコミや賢治の信奉者が、妹が死んでよほど悲しいのだ、とか冷害で月が水銀なんだとか、銀河鉄道がインフレで値上がりして切符を買えなかったんだとか.....

「自分が、これはそうあってほしいと願う方向に」志位的なバイアス(チルト、傾き)をかけるから、条件反射で鵜呑みにすると間違えてしまう。認識の歪みに酔って気違い間違いに気付かない。

勅使川原三郎が「夜の思想」のインタービューで人形振りについてこう語っている。

「自分が何者かという事をある程度限定しないと。体のことや宇宙のことが見えてきませんね。熱狂しているだけだと。」

鉄腕アトム34話「ミドロが沼の巻」

手塚治虫が病気療養中にトキワ荘の直属の弟子達(スタジオ・ゼロ)が助っ人で「鉄腕アトムの模写」をしてもこれだけの違いが出る。一番似ていたのは藤子F不二雄だったとか。だから前述した「複数のアニメーターで宮崎曲線の統一感を保つこと」がどれだけすごいことかと思いませんか。

僕はラインもSNSもインスタグラムもやらないしテレビも見ないけど、「いいね!」が欲しくて投稿する内容がルッキズムに傾いていく気持ちはわかる。肩書も名前もないサイバー空間では免疫機構にも迷いが出るから。

例えばある小説家が「いずれにしても、人外の者ですよね...」の含みには法律や民族差別の意味も練り込まれているでしょう。AIは擬人化して扱う人が多いけど。

この場合の「ゼロサムのサム」とは「タガが外れるのタガ」の事。こちら▼

木の樽のタガ

逆を言えば、ネット上で樽を作るなら目的や主義等の「タガ」を上手く作れれば憲法21条で保証している結社の集会や言論の自由の範囲をある程度規定できる筈。ルールじゃなくてね。法哲学形而上学、あるいは常識の範囲で適当でもいいんだけどさ。本当は。