チェーホフの銃

ミケランジェロ  システィーナ礼拝堂の「最後の審判

これみよがしに出した伏線は上演中に解決しなければならない。チェーホフの格言に倣えば、先日早稲田演劇博物館で氷解した「不条理とは、原因と結果が合致しない事」で、小劇場ブームの頃にエリック・サティとともに流行していたこの人の▼

サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら

は手を変え品を変え、多くの劇団がアレンジして上演していた。蜷川幸雄「待つ!」とか、いとうせいこうゴドーは待たれながら」とかetc

正直言うと僕は「ポエジーなのは認めるけど、どこが面白いんだよこんなの。しかもノーベル文学賞まで取って」と思っていた。

ところがだ。敬虔なクリスチャンにとって「最後の審判に、主役の救世主がこない」と困るわけだよ。その気持ちがわかった訳。

劇団第三舞台朝日のような夕日をつれて

これも事前に「ベケットのゴドーを下絵にしている」と公言していて「ミヨコさんはこないよ」とアレンジしていた。

早稲田大学には大隈講堂はあってもチャペルがないので鴻上尚史が気づかなかったのは仕方がないけど、ルービックキューブを回しながら「リ・インカーネーション。生まれ変わりを私は信じます!」台詞はいい線行ってるんだけどね。「あれ?死んだ女を待ってたの?」と伏線が足りないからよくわかんなかったんだよね。

別役実にしても吉田戦車にしても「不条理とは、トリッキーでナンセンスで鬱傾向でも時々笑えるもの」と長い間僕の心の辞書には彫り込まれていた。それが坪内逍遥のおかげで解明した。

ありがたいこってす。