私の整形手術観

ビリー・ジョエルストレンジャー

ぼくはアート好きだし小劇場演劇出身なので、審美眼の程度はともかく化粧など人工的に人間の手を加えるのは好きな方ではあるけどね。

ダイエットやボディビルディングは食事の節制や筋トレをしたり努力を伴うものなので、その人の生活習慣や健康度がわかるものなのだが、整形手術(形成手術)は病院に行けばできちゃうのが評価のポイントではある。

ラウドネスのショッキングなデビュー時に「二井原実は喉を手術でこじ開けてるんだぜ」と根も葉もない噂が立ったが、ぼくはそれでもいいじゃねえかと思っていた。自分ではやらなかったけど。デモテープの歌にピッチシフターもかけなかった。

その昔ベテランのヤーちゃんが「鳶職が入れ墨をするのは、足場から転落して顔が潰れた時に見分けがつくために彫ったんだぞ。威嚇するためじゃなくて」と飲み屋で言っていたが、なかなかの含蓄である。さすが本物。

その文脈で考えると「整形手術で見分けがつかなくなるのはこれ如何に」と思うんだよ。

ある読書家は「ぼくなんかはもう所謂名作はあまり読みませんね。多少下手な方が面白いっていうか。でも若い人達は名作を沢山読んでくださいね。できればたまに駄作も混ぜて」と言っていた。

アグネス・チャン「美しい朝がきます」

結論として、細野不二彦ギャラリーフェイク」にもあったように「ニセモノ・ルッキズム」の時代にあって、顔形がコンプレックスの原因で問題が発生するようであれば、罪悪感を持たずに整形手術をすればいいのに。と思っている。

ぼくが気になるのは仕草や表情なので露骨な加工は、「アート」ではなく「求愛・同調圧力」としたらマイナスなんだけどね。

「どうせなら...」という感情が働くのだろう。

日記を自動で書いても意味がないんだけどな。仕事ならともかく。