陰陽五行説
そもそもこのブログも、デジタルのインターネット上に綴る▶「能記・表象(シニフィアン)」ではあるのだが、言語伝達において曖昧な日本語圏の私は特に「所記・概念(シニフィエ)」を重視する文化圏に生まれ育っている。
映画「ゼロ・グラヴィティ」
生成AIの記号接地問題
テレビドラマ「北の国から」
♪水彩画の陽炎のような/君の/細い/腕がふわりと/僕の代わりに宙を抱く/ほたる祭りの/夕間暮れ..../さだまさし「風の篝火」
信州・辰野のほたる祭り
映画「かぐや姫の物語」
♪蛍の光/窓の雪.....
はて、冬に蛍?
♪文読む月日/重ねつつ
▶蛍は反射ではなく、自力で発光している。
シニフィアン(仏: signifiant)とシニフィエ(仏: signifié)は、
フェルディナン・ド・ソシュールによって、はじめて定義された言語学の用語。
また、それらの対のことを、シーニュ(仏: signe)と呼ぶ。
・シニフィアンは、
フランス語で動詞 signifier の現在分詞形で、「指すもの」「意味するもの」「表すもの」という意味を持つ。
・それに対して、シニフィエは、
同じ動詞の過去分詞形で、「指されるもの」「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持つ。
日本語では、シニフィアンを「記号表現」や「能記」、シニフィエを「記号内容」や「所記」などと訳すこともある。
「能記」「所記」は岩波書店版『一般言語学講義』の小林英夫による訳業であり、以降広く用いられたが、現在では用いられることは少ない。
・シニフィアンとは、語のもつ感覚的側面のことである。
たとえば、海という言葉に関して言えば、「海」という文字や「うみ」という音声のことである。
・一方、シニフィエとは、このシニフィアンによって意味されたり表されたりする海のイメージや海という概念ないし意味内容のことである。
そして、表裏一体となったシニフィアンとシニフィエの対が「シーニュ」(signe)すなわち「記号」である。
・二つの関係
シニフィアンとシニフィエの関係(シニフィカシオン signification または記号表意作用)は、
▶ その関係に必然性はない。(記号の恣意性)たとえば、「海」そのものを「海」と書き、「う・み」と発音する必然性はどこにもない。
もしそうでなければ、あらゆる言語で海は「う・み」と発音されているはずである。
▶ 必然性がないにもかかわらず、それが了解される体系のなかでは、必然とされている。
日本語を解する人が「海」という字を見たり、「う・み」という音を聞いたりするとき、そこでイメージされるものの根底は基本的に同じである。
また、「海」はどうして「う・み」というのか、という質問に答えることは非常に難しい。
オペラ「トリスタンとイゾルデ」(新国立劇場)
♪ときおり君が散りばめた/土産代わりの町言葉/からまわり/立ち止まり/大人びた分だけ/遠ざかる.....(風の篝火)