DVと内弁慶

Weblio辞書より引用)

「内弁慶」とは、身内に対しては横柄な態度を取るが、よその知らない人に対しては一転して内気で気弱な態度を取るさま、および、そのような人、を意味する表現である。「内弁慶の外地蔵」ともいう。

平松愛理「部屋とYシャツと私」

Wikipediaより引用)

共同幻想

吉本隆明は、著書『共同幻想論』(1968年)で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。

①自己幻想

個人と自我の関係。芸術などの個人的な活動がこれに当たる。他者に影響を及ぼすことはほとんどなく、無制約に自由である。

②対幻想(ついげんそう)

個人と他者とのプライベートな関係。家族・友人・恋人がこれに当たる。

共同幻想

人間同士の公的な関係。国家・法律・企業・経済・株式・組合 などがこれに当たる。

また、宗教は、個人の内面に収まる限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。

映画「IT」

この分類は効果的であり、日々の生活においては世界を正しく見るうえでこれらの3つの幻想領域を混乱、混同させようとしないことが大事であると吉本は主張する。これらはそれぞれ独自の法則から動くものとされていることが理由である。

 例えば、吉本は心理学者のジークムント・フロイトはリビドーという対幻想性を、社会領域まで無条件に拡大して採用しようとしたところに誤りがあるとみて、批判している。

また、1人の人間もこれらの領域においてそれぞれ違う面を持つ傾向にある。

例えば、内集団にいる顔と、家庭にいる顔、そして1人でいるときの顔や行動は、それぞれ違う場合が主である。

外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親である場合があったり、
逆に内集団では物静かな人物が、家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、じゅうぶんありえることなのである。

吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できなくなると主張する。

例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。

岸田秀は吉本から共同幻想の考え方を引き継いで『ものぐさ精神分析』(1977年)を著し、唯幻論を提唱した。岸田の唯幻論において幻想は私的幻想と共同幻想に大別され、対幻想の考えは共同幻想に含まれることになる。

吉本は有機体を原生的疎外と呼び、生命そのものが自然物からの疎外であり、微小ながら幻想性を有していると考えている。

自然からの疎外そのものが、幻想性なのである。ちなみに疎外とは、そこから派生はするが還元されないという意味である。

肉体がないと意識は生まれないが、意識は肉体には還元されない。意識は肉体から相対的に独立して存在するのである。

身体を引き裂いて一度死んだ人間を、また縫合しても生き返らないのと同じである。生命は機械とは違うのである(ここは、ソビエト的な唯物論に対する批判でもある)。

意識と肉体は、炎とロウソクの関係に似ている。

ロウソク(燃える物)が存在しないと炎は生まれないが、炎という燃焼現象はロウソクには還元されない。

よって、いくらロウソクを調べたところで炎という燃焼現象の本質は理解されない。炎はロウソクから疎外された現象なのである。