③ 香りを楽しむ読者シニフィエ派/積ん読のすゝめ

昔はアララギ派白樺派など同人誌を拠点としてジャンルを築いていた。俳句好きの集まりを「俳句結社」というのは、ほんの十七文字なのに憲法21条の手すりをつけねばならない程に戦後GHQの検閲は厳しかったのかと8月ジャーナリズムの感情移入が深くなる。

川端康成「雪国」は「シニフィエ読み」しただけだがエンディングの台詞が「このままでは駒子がおかしくなってしまう。」という歯切れの悪いものだった。

▶これは心理学的スラングの「ハメ殺し」のように、蝶の対称性の電気椅子シンクロニシティの尻取り、リビドー(情動)の依存症の「トンネル」からデタッチメントできず、種田山頭火の裏鬼門のビートで「分け入っても分け入っても闇」に陥るのを怖れて、原作者による強制ジャックアウトした。という感想なんだよね。

松坂慶子「愛の水中花」(作詞:五木寛之

五木寛之「私の親鸞

▶ 数ある仏教の教祖の中で、文学者や評論家に、なぜ親鸞が人気があるのかという問いかけで「刺激的だからね」と言った人がいる。

僕の感想はちょっと違って、肉食妻帯や悪人正機や他力の肯定などの、政治的な革命の側面ではなくて、「浄土真宗の読経が音楽的で美しいから」だと思うんだけど。

インド旅行で買い漁った「ボリウッドの映画サントラのカセット」は、畏まって聴くラヴィ・シャンカールよりもずっとエキサイティングで、現地のインド人と持参したラジカセで一緒に聴いて「この歌はムスリムだ。コーランだよ。こっちのカセットはヴェーダだね」と旋律とリズムと響きの差異を教えてもらった。日本に帰ってきてもその面白さが病みつきになり、色々なお経を音楽として鑑賞したんだけど「般若心経」と、たまたまその葬式に来た僧侶の読経が上手かったのかもしれないけど、親鸞系の経は音楽的だと思う。

五木寛之の「百寺巡礼」

この主題歌を

♪坂の/細い道を/夏の/雨にうたれ/言葉/探し続けて/バスを待つの.....

    紙ふうせん「冬が来るまえに」

に季節限定で差し替えると番組のブリコラージュができるでしょ。お金をかけずに。

2016年にボブ・ディランノーベル文学賞を受賞してから早7年。長寿だよね。経済的な余裕があるからかな。

▶ 数学では「マジックナンバー 7」というのだけど、例えば人間の脳は、一度に7つ以上の複合的な情報を読み取れない。だから4と3や、5と2...に分割・分業して記憶するんだけど、この文脈でいえば「聖徳太子は一度に7人の個別の話しを聞く力があった」という伝説は▶「7人が限界で8人目以降は個別に聞くことが不可能で、末広がりの八方塞がり八紘一宇でダンマリを決め込んで中央集権制度の権威主義者に豹変していった。」とサイエンス・フィクションすると山田風太郎筒井康隆みたいに映画化したくなってくるでしょう。

▶ そのタイミングにフルスイングしたのが角川春樹だったのかもしれない。

白木みのる

▶ つづく